乳児突然死、その受け止め方と医学的見地の変遷
そのころ,遊女が二人、王のもとに来て、その前に立った。一人はこう言った。「王様、よろしくお願いします。わたしはこの人と同じ家に住んでいて、その家で、この人のいるところでお産をしました。三日後に、この人もお産をしました。わたしたちは一緒に家にいて、ほかにだれもいず、わたしたちは二人きりでした。ある晩のこと、この人は寝ているときに赤ん坊に寄りかかったため、この人の赤ん坊が死んでしまいました。そこで夜中に起きて、わたしの眠っている間にわたしの赤ん坊を取って自分のふところに寝かせ、死んだ子をわたしのふところに寝かせたのです。わたしが朝起きて自分の子に乳をふくませようとしたところ、子供は死んでいるではありませんか。その朝子供をよく見ますと、わたしの生んだ子ではありませんでした。」もう一人の女が言った。「いいえ、生きているのがわたしの子で、死んだのがあなたの子です。」さきの女は言った。「いいえ、死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子です。」
二人は王の前で言い争った。王は言った。「『生きているのがわたしの子で、死んだのはあなたの子だ』と一人が言えば、もう一人は、『いいえ,死んだのはあなたの子で、生きているのがわたしの子だ』と言う。」
そして王は、「剣を持ってくるように」と命じた。王の前に剣が持って来られると、王は命じた。「生きている子を二つに裂き、一人に半分を、もう一人に他の半分を与えよ。」生きている子の母親は、その子を哀れに思うあまり、「王様、お願いです。この子を生かしたままこの人にあげてください。この子を絶対に殺さないで下さい」と言った。しかし、もう一人の女は「この子をわたしのものにも、この人のものにもしないで、裂いて分けてください」と言った。王はそれに答えて宣言した。「この子をいかしたまま、さきの女に与えよ。この子を殺してはならない。その女がこの子の母である。」(旧約聖書 新共同訳 列王記上3章16節?27節)
この部分はソロモン王が敬われるようになった経緯を示す逸話ですが、医学の分野では乳児突然死について具体的に記述した文献としても有名です。家庭に赤ちゃんが生まれると家族みんな大喜びです。おっぱいをもらって体重もどんどん増えていきます。泣くか、寝るばかりだった子もあやすと声を立てて笑うようになる。いつのまにか家族の中心になります。ある朝、いつものように眠っている子を起こそうと声をかけても目を開かない、触ると冷たくなって、死んでいる。このように元気な赤ちゃんが突然亡くなることを乳児突然死とよびます。元気な子が予期出来ない死に方をすると、人々はいろいろな理由を考えようとします。人間の理解を超えた『何か得体の知れないもの』、日本では怨霊、たたり、罰が当たった、先祖を大事にしないから、神も仏もあるものか、西洋では悪魔、妖精、あるいは神の御旨を受け止めましょう、もあったかも知れません。とにかく,旧約聖書の時代から人々は何度もこのようなことを経験し、もがき苦しみながら全てをそのまま受け入れるしか仕方がない、人間とはそのような存在だと信じていました。
自然科学が進歩すると人類は全てのことに原因があり,その原因は解明できる、『何か得体の知れないもの』の存在は否定されるようになりました。19世紀半ばロベルト・コッホが細菌を発見してから感染症の概念が確立され、病理解剖学も進歩しました。当然人々は全ての死の原因は医学によって解明出来ると考えます。しかし,乳児突然死については感染症の検査でも解剖でもその死因は解明されないままで、原因を突き止められない医学への風当たりが強くなってきました。そこで1969年アメリカのベックウィヅらは、健康な乳児が突然、原因不明で死亡する症例をSudden Infant DeathSyndrome (SIDS)と定義し、突然死は病気の一種として病名だけをつくりました。SIDSという名前のファイルを作ってとにかく一時的に収納したような状態にしました。
1976年、アメリカで母親の胸に抱かれていた元気な乳児が呼吸をしなくなった症例がきっかけで乳児ボツリヌス症☆が発見されました。
多くの国で突然死した症例についてボツリヌス菌の検査をした所10~20%がこの菌による死亡と判明しました。残りの突然死の原因としては心臓の刺激伝導系、脳幹の呼吸中枢の未熟、代謝疾患、腸内細菌の不均衡、それらが複雑に関与した結果と推測されていますが、全容が解明されたとは言えない状態です。個々の症例での原因究明と同時に乳児の環境を調査することによって原因に迫ろうという動きもあります。
日本では平成7年579例、8年526例の突然死について保健師が家族に直接会って調査しました。その結果、「うつ伏せ寝」は「仰向け寝」に比べ約3倍、「人工栄養」は「母乳栄養」に比して約4.8倍、「父母共に習慣的喫煙あり」は「喫煙習慣なし」に比して約4.7倍それぞれSIDS発症リスクが高いことが判明しました。そこで厚労省はお母さん方にこれらのことを啓発するとともに、保育施設には「うつ伏せ寝」をさせないこと、1歳以下の乳児については5~10分に1回呼吸状態を観察するように通達を出しました。10人の乳児を預かっている施設では呼吸監視だけに1人の保育士が必要になる?一般家庭ではとても実行できないような通達です。この対策によってか平成21年の乳児突然死は140名にまで減少しました。ここまではよかったのですが保育所で「うつ伏せ寝」状態で死亡していることがあると大変な問題に発展するようになりました。なぜ「仰向け寝」にしていなかったのか,呼吸観察はしっかり行われていたのか。「うつ伏せ寝」=突然死と短絡的に捉える人は保育所を訴える行動にでます。
今後、保育所に預ける乳児が増えると残念ながらこの種の事故は増えると想像されます。2012年11月,ある保育所で乳児突然死が発見されました。《担当していた保育士は発見10分前の状況を「覚えていない」という。》これはある新聞に掲載された記事の一部です。この保育士さんは正直な方で10分前には異常ありませんでしたと言えば自分が責められることはなかったにも拘らず、「覚えていない」と言ったのです。この保育士さんは両親から責められる上に,一生、自分の不注意で子供を死なせてしまったと思い続けることでしょう。先にも述べましたが突然死の原因はまだ充分に解明されていません。「うつ伏せ寝」にすると危険性は高まることがある、しかし、それが原因とは言えません。世の中の風潮として自分にとって嫌な事があると必ず誰かが悪い、誰かが過失を犯したからこんなことになったと考えようとします。過失がなくても嫌なことは起こる、人生には避けられないことがある、全体として受け止める,人を許す大きな心が求められているような気がします。
☆乳児ボツリヌス症
ボツリヌス菌は土壌菌の一種で、芽胞のかたちで自然界に広く分布し,条件がそろえば発芽して神経を麻痺させる毒素を産生します。この毒素は自然界で最も強力で1gは100万人の致死量に相当すると言われています。芽胞が体内に入ることは日常生活でよくあることですが、腸内細菌叢が発達している大人では定着することなく体外に排出されます。しかし、乳児では芽胞が長く大腸に滞留すると発芽して毒素を産生し、筋力の低下、呼吸筋麻痺を起こすことがあります。市販されている蜂蜜の5%に芽胞が証明され、1歳未満の乳児には蜂蜜を与えてはならないのはこのためです。アメリカでは年間100例程度発症していますが、日本では年間1例くらいで発症数に大きな開きがあります。また、諸外国では突然死の10~20%がこの菌が原因と言われていますが日本ではまだ1例も報告されていません。この大きな差は米国と日本の医療制度の違いが影響しているのではないかと考えています。
キリスト教保育 2014年9月号(P.42~44)