偏食について
子供を育てているお母さんにとって心配の種はつきることはないようです。子供が生まれる時は、男の子でも女の子でもいい、五体満足でありさえすればいいと願い、幸い奇形もなく元気な子が生まれると、次はお乳が足りているか、ハイハイが遅くはないか、熱がでようものなら頭が悪くならないか、等々。少し大きくなって学校に行く頃になると、今度は成績が気になります。このように子供についての心配事は子供が幾つになってもなくなるものではないのでしょうが、多くの心配事の中で、食事についての悩みは毎日の事だけに大きなウエイトを占めているように思われます。
離乳食を始める頃、お母さんは育児書を見ながらこまめに丁寧に食事の準備をします。1歳ころまでは体重の伸びも良く、運動の発達も目を見張る位一日一日変化していきますから、お母さんは自分の力で子供を育てている満足感に浸っています。しかし子供に自我が芽生え始めるといつまでもお母さんの思いどうりになることはありません。お母さんの真心込めた食事を一口たべてはべーと出し、二口目もべーと出し、食事を終わってみると殆ど何も食べていないことに気づく事もあります。このように遊び食いをしている子供と、食事毎に一喜一憂しているうちに本当の偏食がみられることがあります。
偏食について私は少し変わった考えを持っていますので、今日はその事についてお話します。簡単に言えば偏食は家庭生活に起因すると思っています。
開発の進んでいるあるニュータウンの診療所に勤めていた時のことです。1人のお母さんが2才ぐらいの子供を連れてきました。受診した理由はカゼだったのですが、診察が終わって、
「何か他に聞いておきたいことはありませんか?」
「この頃、食べるのに時間がかかって仕方がないのです。それで早く食べさせようとするのですが、そうすると余計ゆっくり食べるのですよ。それに以前はよく食べていたお肉を嫌がって、器用にお肉だけを除けるのです。」
「家族は何人ですか?」
「この子1人で、あとは私と主人の3人家族です。」
「夕食の時、いつもご主人はお家におられますか?」
この質問をした途端にお母さんの目に涙があふれだし、絞り出すような声で
「主人はいつも12時3分です。」
調べてみるとこのニュータウンの郊外電車の最終はまさしく午前0時03分でした。これでこの家族の生活は大体想像がつきます。
お母さんは、お父さんが早く帰って来ないので寂しい思いをし、それで精神状態もかなり不安定になっているので、私がご主人の事を尋ねると涙があふれたのでしょう。
お母さんは、お父さんが帰宅してから一緒に食事をするつもりで、自分は食べないで待つ、しかし子供にひもじい思いはさせられないので、子供の前に座って食べさせるでしょう。当然お母さんは幸せ一杯の顔をしていません。子供はいつもパクパク食べてくれるものではなく、たまには遊びながら食べたい事も有ります。そんな時にお母さんは子供と一緒に遊ぶだけの余裕はなく、子供にあたることもあるでしょうし、また子供のペースにあわせず自分の気分で食事を与えることもあるでしょう。「楽しい食事」とはかけ離れた雰囲気だろうと思われます。
子供にとって始めての、ある食べ物を口にする時、周りの大人(両親あるいは兄弟)が、おいしそうにそれを食べていれば、子供は奇妙な味と感じてもこれは口にしていい、食べてもいいと判断し、少しずつレパートリーを増やしていきます。
両親の仲が良く、会話が充分あって、食事の時も笑いがあふれている、そんな家庭だとお母さんは子供の口に食べ物を持っていくことも無く、主人と話をするかもしれません。うっかりしていると、お母さんは子供がそばにいることさえ忘れて話に夢中になるかもしれません。こんなに仲のいい夫婦はめったにないでしょうが、もしあるとすれば、この家庭では偏食は起こり得ないと考えます。
ただ、子供の中にはアレルギーなどのため、ある種の食べ物をうけつけない時もありますので子供の様子をみて、医師の診察が必要になる場合もあることを覚えておいて下さい。
子供が食事の習慣を身につけることは体の成長は勿論、精神の発達のためにも計り知れない位大事なことです。めったに行かないのですが、ある高級レストランで美しいドレスをまとった女性の食べ方がその場にそぐわない品の悪さだったことを思い出します。やはり小さい時から、人に作ってもらった食べ物を感謝して、なんでも、おいしく頂く心を育てなくてはいけない。そのためには家族そろって楽しく食事をする、そのような雰囲気が是非必要だと思います。
しかし、残念なことに今の日本は仕事が忙しい、付き合いがある、通勤時間が長い、単身赴任であるなどの理由でお父さんと一緒の食事は実現困難です。そこで私は、お母さんには難しいでしょうが、お父さんのいない寂しい食事でも明るく振る舞って欲しい。お父さんには努力して家族団欒の時間を持って欲しいと切にお願いする次第であります。
最近、あるうどん屋さんで見かけた光景です。若い女性が「きつね」を注文しました。店員さんが、「きつねうどんですか、きつねそばですか?」答えは「そばでいいです。」
「いいです。」という言葉は別に欲しいものがあるのだけれども、仕方なく、そばで我慢するというふうに聞こえます。うどんよりそばの方がいいなら、「おそばをお願いします。」と、どうして言わないのでしょう。それは心の中に食べ物に対する本当の感謝の念が薄くなっているからだと思うのですが、それとも私が少し年をとってぼやき癖がついてきたのでしょうか。